葬儀屋の仕事で興味深い話を聞いた。
震災後から「火葬のみ」が減っているのだそうだ。
「火葬のみ」というのは業界用語で、葬式などのセレモニーを行わず火葬してお骨にするだけ、というもので、ここ数年で急激に増えているおくり方だ。葬儀社によっては一ヶ月の施行のうち、半分以上、多いところだと7割、8割が「火葬のみ」だったりする。「火葬のみ」の専門葬儀社もあるくらいだ。
この送り方が増えている理由は、葬儀業界に対する不信感だったり、宗教へのアレルギーだったり、経済的理由だったり、とさまざまだ。葬儀業界で働いて、毎日いろんなおくり方を見ている自分としては、「火葬のみ」はちょっとさみしいし、なにも区切りになるイベントを行わなくて、遺された人はちゃんと心の整理がつくのだろうか、という心配があった。とはいえ、他人には分からないそれぞれの事情があるのだろうから、そこは口を出す領域ではない。まぁ、とにかくこのおくり方が増えていたのは事実。
それが震災後から急激に減っているというのだ。その話を聞いたのは東京では中規模の葬儀屋さんで、施行件数もけっこう多い。当然のように毎月少なくない数の「火葬のみ」を施行してきたのだけど、震災以来パタリとなくなって、そのかわり、どんなに小さくても葬儀をやる家が増えているらしい。これは推測でしかないのだけど、震災の被害を直接的・間接的に受けて、「死」というものがこれまでよりもリアリティーを帯びて感じられるようになったのではないだろうか。それと、大切な人はやっぱり大切におくりたい、という気持ちになる人が多くなったのではないだろうか。
ブライダル業界も震災以降とても活況だという話をきいた。自分にとって誰が一番大切なのか、ということがこの非常事態の中で明確になったのかもしれないし、誰かと寄り添いあって生きていきたい、という気持ちを持つ人が増えたのかもしれない。
自分も震災によって、余分なものがずいぶんと削ぎ落とされた。なにが大切でなにが大切でないのか。自分が欲しい物はなにで不要な物はなんなのか。それらが整理されシンプルに考えるようになってきた。
胸がつぶされそうな惨たらしいニュースにさらされる日々の中、そういうことに気がつけたことが、決定的に変わってしまった世界を生きていく希望になりそうな気がしている。
20110525
7月にギャラリールーニィでやる個展のタイトルを
[after/before]と決めた。「ビフォー・アフター」ではなくて[after/before]。
一言で言えば、「決定的な何かが起こってしまった後で、そしてまた次の何かが起こる前」ということだ。
あの震災の日以来、いつもの見慣れた町の景色が全く違って見えるようになった。どんな堅牢な建物もとても危うげで、記憶の中の映像を見ているように現実感がない。道行く人を見ても、どこか地に足がつかず落ち着きがなく見える。実際には分からないが、そう感じてしまうのは、もしかしたら今の自分がまだ落ち着きを取り戻していないからかもしれない。まぁ、どっちでもいい。
明日をイメージする事が難しくなった。
「諸行無常」、頭ではわかっていた。すべては移り変わるらしい、失われたものはどうやら二度と取り戻せない、と。それが今回の地震・津波・原発のことで、心の深いところに刻みこまれたのかもしれない。だからといって、「今を大切に生きよう」とは思っていない。逆に、「もっといい加減でわがままに生きよう」と考え方がシフトした。
ある種の諦めだ。人生は思ってるよりもずっと短いし、何を築き上げても必ず崩れてしまう。他人は変わるし自分も変わる。人をなかなか愛せないし、どうやら誰からも愛されない。ならばそんな事に執着しても仕方ないのではないか。
肩の力を抜こう。物事を難しく考えるのはやめよう。もっと本能の声に耳を傾けよう。嫌な事をするくらいなら舌を噛み切ろう。自分が死ぬくらいなら人を殺そう。ずるくしぶとく生きよう。
あの日以来、何かが変わった。その分岐点である今を記しておく為の写真展。モチーフは近所の住宅地。ドラマチックではなく、美しくもない、いつもの風景。何のメッセージも込めず、ある日の散歩を記録するだけ。どうぞ何の期待もせぬように。