個展が終わって一週間が過ぎた。いつも展示のあとしばらくはぼんやりしてしまう。
今回もいろいろな人の感想を聞くことができた。一番多かったのは、肩の力が抜けたストレートな写真ですね、ということだった。別にいつも以上に肩の力を抜いたつもりはない。もちろん撮影期間は一日だったし、写っているのはふつうの住宅地だ。でも、コンセプトは時間をかけて練ったし、プリントは約一週間暗室に籠もりっきりで焼いた。肩の力が抜けて見えたとしたら、それは狙いでもあったので、その意味では成功したのだと思う。
何人かの写真家にプリントを褒めてもらったのはうれしかった。暗室の技術は自己流なのでなかなか上達せずにもどかしく思っていた。自分でプリントするようになって十余年、ようやく及第点をもらえるくらいにはなったようだ。
ポートレートの方がいい、という意見ももらった。ここ数年、ずっとポートレートばかり発表していたので、そのイメージが強いのだろう。もちろんこれからもポートレートを中心に作品制作をしていくつもりだけど、まぁ、たまには今回のようなストリートランドスケープも撮らないと精神のバランスがとれない。
ドイツの人が会場入り口の文章を読まずに、「これは震災の事がモチーフなのですね?」と読み取ってくれたのにはびっくりした。説明がなくても写真だけでちゃんと伝わる人には伝わるのだ。きちんと力のある作品を作れば、必要以上に鑑賞者の目を気にすることはないのかもしれない。むしろ、作品だけではわからないだろうと、あれこれ言葉で説明するのは鑑賞者に対して失礼な行為になることもありそうだ。いや、よくわからない。これは次の課題だ。
今回はほとんど告知をしなかった。写真展はライブなどのように入場料をとったりしないので、来場者数は必ずしも成功の指標ではない。本当に写真が好きな人や、自分がメッセージを届けたい層の人が来てくれればそれでいい。ひさしぶりに顔を見たい、というような古い知り合いや、ネットでつながっているだけの人たちは他の機会に会えばいい。
自分の至らなさを棚にあげて言えば、見に来る人のマナーも少し気になる場面があった。アイスを食べながら至近距離で作品を見たり、やたらに長居をする人は写真展というものを少し誤解しているのではないだろうか。作者にもよるだろうが、写真展は、新しい作品発表の場であると同時に、展示即売会でもある。長い時間と少なからぬコスト、膨大なエネルギーを費やして作った作品を、その価値を見いだしてくれる人に買ってもらう場なのだ。理想論かもしれないが作者も来場者も真剣であるべき場だと思う。写真展があまりに敷居が下がりすぎているのはちょっと気になるところだ。次回はあまりにラフすぎる服装の人は入りづらい空気を出すくらいの気迫を伝えてもいいかもしれない、と思っている。
作品が初めて売れたという意味で、今回は記念すべき展示になった。一枚5万円という、決して安くない値段にも関わらず、二枚買ってくれた人がいる。二年前の個展からずっと応援してくれている人だ。作品そのものだけではなく、自分の将来の可能性も含めて価値をつけてくれたんだと思う。その人の気持ちに応えられるよう、写真家として着実に成長していきたい。
頭の中はとっくに次の作品に向けて動き出している。新しい手法が必要になりそうなので、テストも繰り返さなければいけないし新しい機材も必要だから、実際の制作にとりかかるのは少し先になりそうだ。いい写真は才能や感性だけで撮れるほど甘くないし、まして数を撮ればまぐれ当たりがあるような性質のものではない。一つ一つ煉瓦を積み上げなければ作れない巨大なピラミッドのようなものだ。あせらず、丁寧に事を進めていくしかない。
酷暑の中、会場に足を運んでくれた人、来れなくても遠くから応援してくれた人、静かに見守っていてくれた人、ありがとう。嫌味ひとつ言わず快く連休をくれた会社の人、作品と僕の未来に投資してくれた人、ありがとう。ギャラリールーニィの篠原さん、かなこさん、小原さん、Lineプロジェクトの佳央理さんにもたくさんの愛を。ありがとう。
20110830
気がつけば8月ももう終わり。個展が終わってから毎日暑さにやられてぼんやりしていた。やはり暑いのは苦手だ。
いろいろ思うところがあって、明日で2年弱働いた葬儀業界を辞めることにした。始めた頃はこんなに長くやるつもりはなかった。葬儀の世界を少しだけのぞければそれでよかった。
たくさんの悲しみの場に立ち会った。まるで生きているような遺体もあれば、原型をとどめないような遺体にも接した。けっきょくこの短い期間では、それらに慣れることはなく、亡くなった人や遺された人から強烈なバイブレーションを受け、仕事の度に強いストレスがかかった。いろいろな送り方があることも知った。死は必ずしも悲しいだけではなく、祝いのような式もあった。もちろん自死や不慮の事故などの遺族が発する、空間を歪めるほどの強い嘆きには圧倒され、今思い出しても手が震える。
働きながら、葬儀ってなんだろう、ということをよく考えた。無宗教式のお別れ会もずいぶん増えている。必ずしも葬儀に宗教者はいらない。白木の祭壇などは持っていない葬儀社も多い。遠からず無くなるものの一つだろう。食事や酒がなくてももちろん構わない。そうやって必要でないものを削っていくと、最後に残るのは写真と花だった。元気だった頃の写真と、そこに手向けられる一輪の花があれば、それはもう立派な葬儀なんだと思う。
写真はやはり思い出を風化させないためのツールとして最も力を発揮するのだ。たった一枚の写真でも、そこに写っている人がある時間、確かに存在していたことを証明してくれる。写真を見ているとたくさんの思い出が蘇る。写真があれば人は喪失感に敗北することなく、なんとか悲しみと共生していくことができる。
2年前、自分が撮らせてもらったある人が亡くなった。それがきっかけで葬儀業界をのぞいてみた。そしてやはり写真の持つ力を感じた。どんなに手を尽くしても、人はいつかいなくなってしまう。その運命の前では医学や宗教も無力だ。でも写真があれば、遺された人の悲しみを、ほんのほんの少し和らげることはできるかもしれない。自分が撮る写真が、数十年後に誰かの心の支えになるかもしれない。敬意を持って、その人の魂の輝きを美しく記録できるような写真を撮り続けたいと思う。
明日は葬儀業界で働く最後の日。心をこめて送ってこよう。