20091019

半年前に写真を撮らせてもらった人が他界した。
撮影の時に余命があまり長くないことを聞いていたけど、たぶんよくわかっていなかった。訃報を聞いてからもすぐには実感がわかなかった。しばらくは撮影した時のシーンが断片的に浮かぶだけで、思考が連続しなかった。

その人は友人のお母さんで、会ったのは撮影した日が最初で最後。ほんの数時間だけしか知らない。なのになぜこんなにも心が沈むのかわからない。日曜にご焼香に行ってきたのだけど、遺影を前にすると涙が止まらなくなった。その人のことをほとんど知らないのに、親族の前で涙を流すなんて失礼なことだと思う。自分の身勝手な感情移入だ。抑えようとこらえていたけど、涙は勝手にボロボロと流れていった。

きっと自分にとって撮影という行為は、瞬間的だけどとても深いコミニュケーションなんだと思う。感覚を最大限に開いて相手の深いところにそっと触れる。言葉はなくても相手の何かを強く感じることができる。相手のその何かは撮影した瞬間に自分の一部になるから、それを失なった時にすごくさみしくなるのかもしれない。

今年はその人を含めて知っている人が3人も亡くなった。「あの世」があるなら、きっとその世界はすこし明るくなったはずだ。そのぶんこちらの世界が暗くなった。誰かがまた明るくしなければいけない。その人たちがやってきたことをそのまま引きつぐことはできないけど、でもなにかやらなければいけない。そうしないと自分がむこうに逝った時に叱られてしまう。

命は有限、それが亡くなった人から学ぶべき一番大切なことだ。のんびりしていたらすぐにタイムオーバー。逢いたい人には逢う。伝えたいことはちゃんと伝える。嫌なことはやらない。愛せる人しか撮らない。楽しむ時は全力で楽しむ。そして自分が天から与えてもらったギフトを最大限に活かして、一人でも多くの人に還元する。これからはそうして生きていこうと思う。

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20091011

パソコンの調子がおかしくなった。
先月買ったばかりのネットブックなのに。

起動にえらく時間がかるし全ての動きが異常に遅い。調子にのってあれこれソフトをいれまくったりレジストリをいじったりしたのが原因らしい。ひとつひとつをチェックしていくのも面倒なので、windowsごといれ直すことにした。

ハテ、そこで気がついたのだけど、ふつうパソコンには出荷状態に戻すために使う”リカバリーディスク”なるものが付属しているのだけど、それがどこにも見あたらない。調べてみるとこの機種には元々付いていないらしい。

CDドライブも無いパソコンだから、どうやってwindowsを再インストールしたらいいのかわからない。サポートセンターに電話してみると、リカバリの為のソフトはパソコンの中にあるらしい。パソコンの調子が悪い時に必要になるソフトがパソコン内部にあるっていうのは不親切だ。こうなったらサポートセンターに持っていくしかないらしい。

なんだかいろいろとめんどくさくなった。もうwindowsと手を切ってやることにした。自分名義のパソコンを初めて手に入れてから今年でちょうど20年。以来ずっとマイクロソフトと付きあってきたのだけど、そろそろ潮時か。今までありがとう、ビル・ゲイツ。さようなら、ビル・ゲイツ。

というわけでlinuxを使うことにした。
詳しいことは省くけど、linuxとはネット上で無料で手にはいるOS。これまで数年おきに何度も試してきたのだけど、専門的な知識がないと扱いが難しかったり、周辺機器が対応していなかったりして、まだ実用レベルではないという印象だった。それが今回インストールしてみてちょっと驚いた。かなり使いやすくなってるしソフトも充実している。周辺機器も自分が持っている範囲のものはほとんど認識された。デザインもなかなかいい。

これはすごいことだ。今は1万円もだせば十分な性能を持った中古のパソコンが手に入る。そこに無料のlinuxを入れれば非常に安価な端末ができあがるわけだ。これを使って情報を入手したり発信したりできる。写真や動画や音楽のソフトも無料だ。web上のサービスを使えば語学を勉強することもできるし、英語のサイトを自動翻訳サービスで読むこともできる。もちろん世界中の人とリアルタイムなコミニュケーションがとれる。ランニングコストは通信費くらいだけど、それも今は本当に安い。

いい時代になったんだと思う。
初期費用1万円と通信費月額千円で可能性がぐっと広がる。かつてパソコンは”おたくのおもちゃ”だったけど、今は何かの目的を持つ人にとっては必須アイテムだ。この便利な道具の圧倒的コストパフォーマンスの良さに今さらながら驚いている。

たとえば新宿公園に住む約1000人のホームレスの人が動画を毎日生配信したらどうなるだろう。または、ひどい扱いを受けている派遣で働く人や外国人労働者が実名でブログを書いたらどうなるだろう。もちろん数人では潰されてしまうけど、数万人が一斉に書けば政府や企業も無視できなくなるはずだ。

自分がパソコンを使い始めたころはまだ真っ黒い画面に向って何かコマンドを打たなければならなかった。ソフトを起動するだけである程度の知識を要求された。人がパソコンに合わせていたのだ。それがようやくパソコンが人に合わせるようになった。日本に関して言えばほぼネットのインフラも整備された。あとはこれをどう使っていくかだな。

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20090927

最近動画に興味がある。見る方じゃなくて撮る方。

別に写真からムービーへ表現手段を移行させようというつもりは無くて、あくまでメインは写真。だけど、手法や道具によって表現できる内容が違ってくるので写真では出来ない何かを動画に求めている。

写真・文章・動画・歌・踊り、etc…
それぞれ得手不得手がある。たとえば写真では「叫び」という感情は伝えにくい。いや、そもそも感情を伝えるには写真は不向きなメディアなのかもしれない。それから当り前だけど音も伝えることができない。鑑賞者の想像力に頼るしかない。もちろんその不自由さのおかげで余計なノイズがフィルタリングされて、核になる情報が鮮明になるのが写真のいいところなのだけど。

自分が一番自由に扱えるのは喋り言葉だ。相手の表情を見ながら臨機応変に内容をチューニングしていくのは他の方法に比べてストレスが少い。でもこの方法は基本的には一対一、多くても一対三人くらいにしか有効ではない。たくさんの人に何かを伝えには他の手段が必要になる。

喋り言葉に比べて、このブログのような書き言葉は少し苦手だ。だけどアーカイブされていつでも何度でも読めるので便利だし、込みいった内容のことも伝えやすい。でも臨場感や熱量を伝えることが難しい。まぁ、これは自分の文章力の無さの問題。

そこで動画に興味が湧いてきている。音や動きをアーカイブする方法は今のところ動画を撮るのが一番だ。幸い今のデジカメのほとんどには動画撮影機能がついている。二年前に買ったコンパクトデジカメにも簡単な録画機能がついていたので、半月前くらいからテストを繰りかえしている。

これがなかなか難しい。カメラに向って何かを喋るというのがこんなに難しいものだとは思わなかった。いや、正確に言うと誰もいないところで一人カメラに向って何かを喋るというのが難しい。撮影者なりインタビュアーがいればそれほどではないのだろうけど、独り言を喋っているようでどうにも気恥ずかしい。

街を歩きながら風景を撮ったりもしてるのだけど、これもうまくいかない。ただ漫然と撮っても全然面白くない。でも面白くしようと思った途端に作為が鼻につくような映像になってしまう。写真を始めたばかりの時を思いだす。あの頃と同じ感覚だ。作為や自意識との戦い。

あまり難しく考えずに、どんどん撮ってどんどん公開しているうちに自分のスタイルができてくるのかもしれない。そう自分に言いきかせるのだけど、撮った動画を確認のために見返すとやっぱり公開をためらってしまう。もう少しマシになってからじゃないと恥しいな、と。やっぱり自意識が邪魔をする。

まだ動画で何が出来るのかは分らない。でも新しい手段を手にすることによって引きだされる、自分の知らない自分に出会えるのでは、と期待している。

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